中津の銘菓を守る。
130余年の老舗菓子店
〈ビスマン本舗殿畑双葉堂〉
を受け継ぐ元バンドマンの決断
創業137年、中津に根づく
老舗菓子店を守る5代目
かつての城下町の風情を色濃く残す大分県中津市。JR中津駅から車で20分、国道213号沿いに、レトロで愛らしい看板を掲げる菓子店があります。創業から130年を超える老舗〈ビスマン本舗殿畑双葉(とのはたふたば)堂〉。ここでは今も昔も変わらず、中津のソウルスイーツとして愛され続ける銘菓〈ビスマン〉がつくられています。


「いらっしゃいませ!」と、明るい声で出迎えてくれたのは、5代目の殿畑敦士さん。
穏やかな笑顔からは想像がつかないかもしれませんが、敦士さんはかつて全国のライブハウスで激しいビートを刻んでいたパンクロッカーでした。
「昔は家業を継ぐつもりなんてまったくなくて、東京で、音楽一本で生きていくつもりでした」
今はドラムスティックを置き、伝統の味を守るために故郷で新しい挑戦を始めています。
横綱・双葉山も愛した味。
老舗菓子店の歴史と中津のソウルスイーツ
〈ビスマン本舗殿畑双葉堂〉の歴史は、明治22(1889)年にまでさかのぼります。
中津市と福岡県の境にある小祝(こいわい)港が創業の地。祭事用の砂糖菓子を販売する小さな店からスタートしました。2代目が本格的なまんじゅう店を始め、麹でつくった甘酒まんじゅうが港を行き交う労働者たちの間で評判に。「“殿畑まんじゅう”を食べると疲れが吹っ飛ぶ」と親しまれたその味は、あるひとりの少年の心も掴んでいました。当時、近所の漁師の手伝いをしていた宇佐市出身の少年・穐吉定次(あきよしさだじ)、のちの大横綱・双葉山です。

「相撲好きな2代目が、貧しかった少年時代の双葉山関をかわいがって、よくお菓子を食べさせていたそうです。その縁があって、のちに双葉山関から『双葉』の名をもらい、『殿畑双葉堂』という屋号になりました」

そして昭和30(1955)年、店の運命を変える商品が誕生します。敦士さんの祖父である3代目が考案した〈ビスマン〉です。
戦後から間もないころ、ビスケットは高級品でした。
「子どもたちに、ビスケットのようなハイカラなお菓子をお腹いっぱい食べさせたい」
そんな祖父の想いから、2代目が築いた製餡の技術を生かして、ビスケット生地に黄身餡(きみあん)を包む和洋折衷の「ビスケットのようなまんじゅう」=〈ビスマン〉の斬新なアイデアが生まれました。

「祖父はとてもハイカラで文才もあるユニークな人だったんです。〈ビスマン〉のロゴマークも当時の手描きなんですが、ビスケットの形を模した縁取りがひとつひとつ不揃いで、そのラフさが今見ると逆にあたたかくてかわいいんですよね」


それから約70年。〈ビスマン〉は中津市民の手土産として、また家族団らんのおやつとして、世代を超えて愛され続けてきました。
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「一生、音楽で生きていく」
夢を追った東京時代と、突然の転機
家業のお菓子が地域に愛されていることを誇らしく思っていたものの、敦士さんの目は外の世界に向いていました。高校2年生のときに「東京へ行きたい」と父に宣言。猛勉強の末に大学進学を果たし、上京。本当の目的は音楽でした。
大学時代に出会った仲間と結成したバンドで、中学3年生から続けたドラムを担当。ライブハウスでの下積みや、チケットのノルマをこなす日々を経て、その実力は次第に認められていきます。外国人客からの支持をきっかけに、シアトルやポートランドなど8か所を巡る海外ツアーも敢行。レコード会社が決まって全国ツアーをまわり、憧れのレーベルからのオファーも舞い込むなど、バンド活動は順風満帆でした。

しかし、人生の転機は突然やってきます。
バンド活動が波に乗っていった時期に、家業を手伝っていた兄が退職したことを知ります。
「帰ってこなくていい。お前は好きなことをやれ」と父から言われていた敦士さんに、一本の電話が。敦士さんの心がざわつきました。
「普段電話なんてしてこない父が、私の誕生日にかけてきて。はっきりとは言わないんですけど、実家の状況が思わしくないことと、後継者について悩んでいることが伝わってきました」
敦士さんの脳裏に浮かんだのは、自分をかわいがってくれた祖父の顔、そして祖父が生み出した〈ビスマン〉の存在でした。

「もし店がなくなってしまったら、じいちゃんが大切にしていた〈ビスマン〉も消えてしまう。それでいいのだろうか――――」
音楽への未練、家業の状況を仲間にどう伝えるのか、そして「継ぐ」ことの責任の重さ。葛藤の日々が続きましたが、最終的に敦士さんを動かしたのは理屈ではなく、使命感でした。
「やっぱり、中津が好きだったんでしょうね。それに、130年以上続く店をここで途絶えさせるわけにはいかないと思いました」
バンドメンバーや事務所の理解を得て帰郷したのは、33歳の頃でした。
元バンドマンの5代目の帰郷、
職人との衝突と改革
意を決して戻ってきた実家の老舗菓子店。現場の職人たちは、東京のバンドマンを受け入れる歓迎ムードではありませんでした。
自分にできることを探した敦士さんは草むしりや掃除から始め、お菓子づくりの基礎を一から学びました。

工場で焼きたての〈ビスマン〉を食べたとき、敦士さんはその味と食感にあらためて感動したのだそう。「焼きたてはサクサクで、まさに『ビスケットまんじゅう』なんですよ。じいちゃんが残したかったのはこれだったんだなと。絶対になくしてはいけないし、もっと広めなくては」
そんな思いが強くなる一方で、敦士さんには少しずつ気になる点が見えてきたのです。
例えば、製造工程。当時は焼き上がったお菓子をそのまま店頭に陳列し、売れ残ればロスになる。そんな昔ながらのやり方が続いていました。
「出来たてはおいしいけれど、時間が経てば味は落ちる。ロスが出るからと生産を調整すれば、お客さまが買いたい時に商品がない。これではダメだと思いました」

敦士さんは改革に乗り出しました。目をつけたのは冷凍技術の活用です。焼く前の生地を冷凍保存し、必要な分だけをこまめに焼くことで、焼きたてのサクサクした〈ビスマン〉を届けたい。そのためには仕組みを変える必要がありました。
しかし、工場長をはじめ、ベテランの職人たちは猛反対。「そんなやり方は邪道だ」「今まで通りで問題ない」と変化を拒んだのです。
「何度もぶつかりました。でも、私も譲れませんでした。バンド時代もそうでしたが、つくり手のエゴではなく、受け取るお客さんがどう感じるかがすべて。焼きたてのほうが絶対においしいし、お客さんも喜ぶ。それだけを信じて説得を続けました」
結果、この改革は成功に。ロスは減り、味の評判も上々。何より、職人たちがお客さんのためを思う気持ちを共有してくれるようになったことが、最大の成果でした。

さらに、贈答品が売れないコロナ禍が追い打ちをかけるなか、補助金を活用して個包装の機械を導入したことも大きな決断でした。それまでは箱詰めが主流で、賞味期限も短く、バラ売りが難しかった〈ビスマン〉。個包装と脱酸素剤の導入で日持ちが向上し、気軽に購入してもらえる道の駅やスーパーなど、新しい販路が開拓できるようになったのです。
「あのときリスクを恐れて何もしなかったら、今はなかったかもしれません。ピンチのときこそ、直感を信じて動く。それはライブハウスで培った度胸のおかげかもしれませんね」
〈GUSH!〉で見つめ直した、
変える勇気と変えない誇り
家業に入って10年を目前にした2024年。多忙な日々に追われながらも「学びの場に出ていかなければ」と思うようになった敦士さん。知り合いの紹介で、大分県の“アトツギ向け伴走支援プログラム〈GUSH!〉”の存在を知り、参加を決めました。
〈GUSH!〉は、単なる経営ノウハウの座学ではありません。“アトツギ”たちが自社の強みを見つめ直し、既存事業のブラッシュアップや新規事業の創出を7か月間伴走型で支援するプログラムです。
「参加当初は『何か新しいことを始めなければ』と気負っていました。でも、メンターの方と壁打ちをしたり、ほかの参加者と話したりするうちに、自分が本当にやりたいことは新規事業ではなく、今ある〈ビスマン〉をどう未来に残すかだと気づいたんです」

〈GUSH!〉での経験を通じて、自社の武器が“歴史”と“デザイン”であると再認識したと語ります。
「70年間変わらない〈ビスマン〉のロゴやパッケージは、お金では買えない資産です。今風におしゃれに変えるのではなく、このレトロな良さを現代にどう伝えるかが鍵だと確信しました。これからパッケージなどをリブランディングしていくとしても、このロゴだけは変えたくないと思ったんです」


そこで取り組んだのが、オリジナルグッズの制作でした。まず、バンド時代の経験を生かし、スタッフ用のTシャツづくり。背中には、創業から現在に至るまでの歴史を、バンドのツアー日程のようにレイアウトしたデザインに。「かっこいい」と話題になり、今では店頭で販売する人気商品になりました。
さらに、敦士さんが手がけた新商品〈ダクマン〉の立ち位置も明確になりました。
「〈ビスマン〉はどうしても『おばあちゃん家にあるお菓子』というイメージが強く、若い世代には手に取ってもらいにくい。そこで、ダックワーズ生地に、ビスマンで使用する黄身餡とバタークリームを合わせた〈ダクマン〉を開発しました。これは〈ビスマン〉の姉妹品として、若い人への入り口の役割を持たせています。〈ダクマン〉で興味を持ってもらい、歴史ある〈ビスマン〉へ誘導する。〈GUSH!〉で戦略を練っていくと、点と点がつながって線になりました」

また、〈GUSH!〉で得た大きな収穫は「仲間」だと敦士さんは振り返ります。
「家業を継ぐ悩みや孤独は、同じ境遇のアトツギにしかわかりません。業種は違っても、同じ志を持つ同世代の仲間と出会えたことは、何よりの財産です。今でも彼らとは情報交換をしたり、お互いに刺激し合ったりしています」
100年先へ。未来へつなぐ「なりわい」のバトン
「菓業と女房に惚れるが一番」
これは、敦士さんが敬愛するユーモアのある祖父が書き残した言葉です。印象的だった言葉であり、胸に刻んでいる言葉でもあります。
「継いだ当初はプレッシャーもありましたが、今は『やるしかない』という清々しい気持ちですね。先代たちが必死に守ってきた暖簾を、僕の代で終わらせるわけにはいかない。でも、ただ守るだけじゃおもしろくないですから」

敦士さんが目指すのは、中津銘菓から「九州銘菓」へのステップアップ。そして、地元の子どもたちにとっての「懐かしい味」であり続けること。
「小学校での講演や、子ども食堂にお菓子を提供する活動も続けています。いつか子どもたちが大人になったとき、『小さい頃、〈ビスマン〉を食べていたな』と思い出してくれるような、地域に根差した店でありたいんです」


かつてステージの上でスポットライトを浴びていた敦士さん。今は老舗菓子店というステージで、甘い香りに包まれながら、スタッフとともにお客さんのために最高の一品をつくり続けています。「音楽も商売も、本質は同じなんです。つくったもので誰かを喜ばせたい、感動させたい。全部つながっているのかなと思います」
その仕掛けづくりのひとつに、〈ビスマン〉のシリーズとして新たな味を開発する予定があるとのこと。

インタビューの最後に、敦士さんが自身のこれからの夢を聞かせてくれました。
「将来、自分の子どもが『お父さんの店を継ぎたい』と心から思ってくれるような、そんなかっこいい会社にすることですね」
実は敦士さん、音楽活動を完全にやめたわけではありません。今は趣味として中津のライブハウスでドラムを叩いているそう。音楽の夢の続きも、密かな息抜きとモチベーションになっています。
変えるべき勇気と、変えてはいけない誇り。このふたつを胸に、5代目は今日も次の歴史を刻んでいます。中津のまちで愛され続ける〈ビスマン〉は、これからも時代を超えて、人々の心をやさしく満たし続けていくに違いありません。
credit text:牧亜希子 photo:藤島靖佳