文筆家・甲斐みのりが別府に通い続ける理由。
その土地ならではの魅力を再発見することが得意という文筆家・甲斐みのりさん。食・店・風景・人など、幅広く興味のアンテナを広げています。そんな甲斐さんが、年に一度は必ず訪れるのが別府。いわゆる観光地とはひと味違うまちの魅力を、甲斐さんの写真とエッセイでご紹介します!
10年前、友人の移住をきっかけに別府を訪れる
日本屈指の温泉地・別府に通うようになって10年が経ちます。きっかけは、仲のいい友人が住まいを別府に移したこと。それ以前にも彼女の案内で別府を拠点に大分県内を何度か巡っており、これまでの大分旅の回数は10回近くなるでしょうか。一度訪れると2〜3泊は滞在するので、すっかりなじみの土地になりました。
同じ土地に繰り返し通う醍醐味は、“暮らすように旅する”ことができること。別府には市や町内会が管理する共同温泉がまちじゅうにあるので、朝・昼・夜と異なる温泉の湯船に身を沈めることができるのが、温泉好きにはうれしいかぎり。目覚めてすぐ宿から歩いて、大正(1916)5年創業の老舗〈友永パン屋〉へ向かい、その日の朝食を求めるのも楽しみのひとつ。
別府駅から続く高架下の商店街〈べっぷ駅市場〉で、巻きずしや惣菜を買い込み、公園や海辺で食べることも。いわゆる“観光”とは少し違う視点で通りを歩き、日常の風景に溶け込むことで、飾らぬ人や土地の魅力をぐっと間近に感じることができます。
昔ながらの佇まいと色鮮やかな壁画が共存する〈東町温泉〉。
別府市内に数ある温泉の中で、もっとも好きな共同温泉が、趣ある木造の駅舎が残る東別府駅前にある〈東町温泉〉。2階建ての建物の一部は、今でも地域の公民館として使われています。
入湯料は100円(2023年1月より200円)。料金箱に入湯料を入れて階段を下ります。すると、地下の広々とした浴場の中央に、小さな楕円形の湯船がぽつんと。その佇まいがなんとも愛らしいのです。
さらに特別なのが、色鮮やかな壁画。私が別府に通うきっかをつくってくれた、イラストレーター・網中いづるさんの絵が描かれているのです。男湯・女湯を隔てる壁には海や山の自然。脱衣場側の壁には、猫や花や雲。別府らしい昔ながらの温泉に、美しい絵画が溶け込んで、ここにしかない趣をたたえています。
〈別府ブルーバード劇場〉で映画に涙し、
〈なかむら珈琲店〉で絵はがきをしたためる。
暮らすように旅した別府で忘れられない体験が、昭和24(1949)年からの歴史ある映画館〈別府ブルーバード劇場〉で、朝一番に映画を観たこと。
上映時間前に息を切らしてチケット売り場に駆け込むと、「おひとりさんの貸し切りやけんあわてんでいいよ」と、名物館長の岡村照さんがにっこり。ゆっくり劇場に電気をつけてくれて、ひとりで映画を見始めました。
それから少しして、ご年配のご夫婦が途中入場してきて、私の並びの席に座りました。そのうち、ふたりがずるずる鼻をすすり出すと、私の目も涙でかすんでスクリーンがぼやけて見えます。観客3人だけの劇場で、お互い気を遣い合いながら鼻をかんで観た、『この世界の片隅に』。ストーリーも、映画館で過ごした時間も、どちらも鮮烈に記憶に刻まれています。
上映後にビルの外に出ると、外の光がいつもよりまぶしく感じられました。もう少し、映画の余韻に浸っていたくて、映画館と同じビルの中にある〈なかむら珈琲店〉へ立ち寄ることに。
店は、カウンター席の奥に、レンガの壁のテーブル席という2層のつくり。どちらに腰かけようか迷ったうえでテーブル席を選んだのは、以前〈別府市美術館〉で見た、大分生まれの画家・宇治山哲平の抽象画が、レンガの壁に飾られているのが見えたから。マスターに絵のことを尋ねると、昔、宇治山さんもこの店に来たことがあるのだそう。
テーブル席の片側には、立派な音楽機材が置かれていて、それだけでマスターが音楽好きであることがわかります。昭和30年代から続く店で、濃厚なコーヒーを味わいながら、「今度は一緒に別府を旅しましょう」と、旅するときに持ち歩いている絵はがきで、友人に手紙を書きました。
“別府に残る昭和”を探して〈別府ラクテンチ〉へ。
私が別府を好きな理由のひとつは、懐かしい昭和の景色がそこかしこに残されているところ。古きよき温泉街に漂う風情こそ、別府ならではの宝物。駅から徒歩圏内にある地域は、くまなく散策してきましたが、どの道を通っても飽きることがありません。
ふとした場所に、昔ながらの商店や、貴重な看板建築、こぢんまりとした温泉が現れて、昭和の時代の物語の世界へ潜り込んだよう。決して古いだけではない、味わいある別府のまちに心惹かれた人たちが、まちの雰囲気を大切にしながら、新たなお店を開いているのにも親しみが湧きます。
“別府に残る昭和”で、なによりも好きな場所が、昭和4(1929)年開園の山上の遊園地〈別府ラクテンチ〉。お城型のエントランス。日本屈指の急勾配を上り下りする、犬と猫のケーブルカー(2019年に引退。現在は一般的な車両型を運転)。日本でひとつしかない、標高約240メートルの高さから別府の市街地を見晴らす二重式の観覧車。ジェットコースターやサイクルモノレール。なにもかもが昭和遺産の文化財級。
入園者は、眼下に別府湾の絶景を望む展望大浴場がある温泉〈絶景の湯〉も無料で利用できます。私は、ここでひとり過ごしたこともありますが、景色や乗り物を眺め、〈友永パン屋〉や〈べっぷ駅市場〉で買ってきたあれこれを食べて、温泉で寛ぎ……一日飽きることはありませんでした。
次の春も、また別府を旅する計画をたてています。半分は、いつもの温泉、いつもの店、いつもの味、いつもの景色の中で、ほっと和むつもりでいます。そしてもう半分は、新たな出会いを求めて、まだ知らぬ地域や温泉、店や味の探訪を楽しみにしています。
文筆家。旅、散歩、お菓子、手みやげ、クラシックホテルや建築などを主な題材に、書籍や雑誌に執筆。webマガジン『casabrutus.com』「甲斐みのりの建築半日散歩」など連載多数。自治体の観光案内冊子の監修も手がける。著書に『歩いて、食べる 東京のおいしい名建築さんぽ』(エクスナレッジ)、『乙女の東京案内』(左右社)、『地元パン手帖』(グラフィック社)など。
*価格はすべて税込みです。
credit text & photo:甲斐みのり