田染荘展望所から望む水田の景観
連載|大分じかん

平安時代から1000年以上変わらぬ
「田染荘の田園風景」 | Page 2

Posted 2021.09.24
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眼下に広がるのは、美しい曲線を描く水田

8月末、里山に囲まれた田染荘小崎に足を運んでみました。西側を華岳(はながたけ)と西叡山(さいえいざん)、南側を烏帽子岳(えぼしだけ)といった山々に囲まれた地区はさほど広くはありません。ただ県道を曲がって、このエリアに入った途端に空気が一気に澄んだように感じられるのが不思議です。

六郷満山(ろくごうまんざん/約1300年前、宇佐国東半島各地に仁聞が開設した寺院群の総称であり、神仏習合の原点となる山岳宗教)と呼ばれる大霊場のひとつでもあり、宇佐神宮を中心とする八幡信仰も根づいたこの地には、目には見えない力があるのかもしれません。

「耶馬(やば)」と呼ばれる岩峰
火山活動で形成された国東半島には「耶馬(やば)」と呼ばれる岩峰が多数あります。田染荘の朝日・夕日岩屋もそのひとつです。

まずは地区を見渡せる展望スポットとなっている「朝日・夕日岩屋」を目指しました。人の手があまり入っていない山道を登りながら、「もしかしたら、六郷満山を開いたと伝えられる伝説的な僧侶、仁聞(にんもん)もここを歩いたかも」という思いがよぎります。

この里山は峯入り、つまり仁聞の足跡を辿りながら国東半島の霊場を回る荒行(あらぎょう)のルートのひとつでもあるのです。幸いなことにこの部分の道のりは厳しくなく、15分ほどで岩屋に到着。夕日観音が置かれた西側の夕日岩屋からの眺めに悠久の時を感じます。

朝日・夕日観音登山口
朝日・夕日観音登山口。六郷満山の僧侶の「峯入り」ルートに組み込まれていて、15分ほど登ると田染荘を一望できる夕日岩屋に到着します。

眼下に広がるのは、美しい曲線を描く棚田です。大きさも形も異なるのに絶妙な統一感を醸し出していて、巨匠が描いた絵画のよう。弧を描く水田はコンバインなどの農機はもちろん、馬や牛すら使わずに人力で田植えをしていた時代そのままなのでしょう。

平安人が見たのと同じ景観を令和の時代に生きる私たちが目にできることに驚くばかりです。1000年以上の時を経て、なぜこのような景観が残っているのでしょうか?

数体の石仏が並ぶ
展望スポットから5分ほど登ったところに夕日岩屋があり、数体の石仏が並んでいます。首のない石仏は平安時代のもので、ご尊顔が拝めるのは江戸時代につくられた観音菩薩像とのこと。

素朴な疑問に答えてくれたのは、荘園の里推進委員会・事務局長の蔵本学さんです。

「大分県立歴史博物館(旧・大分県立宇佐風土記の丘歴史民俗資料館)が1981年から86年にかけて行った『豊後国田染荘の調査』で、田染には中世時代の遺構を継承するかたちで水田が残っていることがわかり、村落景観を残そうという動きにつながりました。

また、宇佐八幡宮関係の古文書や元禄2年に書かれたという『豊後国国東郡田染組小崎村絵図』の写しと航空写真の比較によって、水田や水路、集落の区割り、地形も大きな変化がなかったことも明らかになったそうです」

田染荘展望所から望む水田
田染荘展望所から望む水田の景観。朝日・夕日岩屋からの展望とは違った角度で、美しい曲線を堪能できます。車道沿いなので、体力に自信がない人は、こちらの展望所のほうが楽なはず。

調査を行った専門家のアイデアがGoogleマップを駆使する人気テレビ番組『ポツンと一軒家』を先取りしていることもわかりました。蔵本さんの説明に「実は農地の区画を整理する圃場(ほじょう)整備が隣接する地区にまで迫っていて、時間との戦いでした」とつけ加えてくれたのは、豊後高田市農業振興課の尼子啓さん。

1000年以上も前と変わらぬ景観を残すべきか、圃場整備を選ぶべきか? 10年以上もまとまらなかった意見をひとつにしたのが、現在は荘園の里推進員会の顧問を務める河野精一郎さんでした。

延寿寺に立つ河野精一郎さん
河野さんが佇むのは、かつて荘官の田染氏が住む「尾崎屋敷」があった場所に開かれた延寿寺(えんじゅじ)。戦国時代につくられた土塁の一部が現存しています。

鶴と亀のわら細工
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“遺産”として認定

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