水郷日田の水と米で醸す〈井上酒造〉。
県内初の女性蔵元杜氏が極める、
革新的な酒づくり
江戸時代には九州の交通の要衝として西国筋郡代(さいごくすじぐんだい)が置かれ、江戸幕府直轄(ちょっかつ)の天領として栄えた日田市。日田盆地の寒冷な気候と、天然の地下水はおいしい酒を生み出すのに適しており、古くから酒づくりが盛んな地域でもありました。今回訪ねたのは、そんな自然の恵み豊かな水郷日田の地で、1804年に創業し、200年以上にわたって、その長い歴史を紡いできた蔵元〈井上酒造〉です。
日田市の名水と豊かな自然で育む。
県内唯一の清酒の女性杜氏を訪ねて
〈井上酒造〉は、酒本来の味を楽しめる「最後まで飲み飽きない酒」を目指して、環境や素材にこだわり抜いたおいしさを届けています。なんと蔵人自ら酒の原料となる米づくりから行っているというから驚き。さらにこだわっているのが、田んぼの水。蔵元のある、大鶴谷周辺の耶馬渓(やばけい)層と呼ばれる火山岩でゆっくりと濾過された、清く澄んだ天然水を田んぼに引いて米づくりを行っています。
しかもこの水、酒づくりの「仕込み水」に使用されているのと同じもの。「仕込み水」は、米に並ぶ日本酒の大切な主原料であり、酒の質や味わいを左右する重要な成分です。
「地下150メートルから汲み上げて、仕込み水を直接田んぼに流し込んでいます。この自然豊かな蔵の立地にも感謝ですね」と笑顔で話すのは、井上酒造の社長であり、杜氏(日本酒製造責任者)を務める井上百合さん。
育てているのは、栽培が難しいといわれる〈山田錦〉や〈雄町(おまち)〉。茎が長くて倒れやすく、穂から籾(もみ)がばらばらと落ちやすいなどの特徴から手間はかかるものの、酒づくりに適しているといわれています。
かつて女人禁制だった酒づくりの世界で、1997年に母・睦子さんが社長に就任。その後、2018年に井上さんが社長を引き継ぎ、同時に杜氏となりました。
「これまで家業は歴代の長男が継いでおり、私は二人姉妹の長女。後継ぎの自覚はありましたが、『一度は外の世界を……』という父の勧めもあり、福岡県で就職。そこで出会って結婚した夫が東京都勤務になり上京し、子育てをしながら結局そのまま約20年間、専業主婦として暮らしていました」
転機は、ひとり娘・華子さんの20歳の誕生日に訪れます。
「ある日、成人を迎えた娘から食事に誘われたんです。そこで『これまで育ててくれてありがとう。今、日田に帰らなかったら一生後悔するよ。これからはママの人生を歩んでほしい』と言われたんです。日田市や家業への思いを娘に話したことがなかったのですごく驚きましたが、同時に、親にアドバイスしてくれるほど立派に育った娘が誇らしかったですね」
娘さんに勇気をもらった井上さんは、2014年3月、心機一転、日田市へ帰郷。新たな人生のステージが幕を開けたのです。しかし、経営はもちろん、酒づくりもまったくわからない状態でのスタート。専務として家業に従事しながら、当時東京都北区(現在は広島県に移転)にあった独立行政法人〈酒類総合研究所〉に入所し、研修生として約2か月間、合宿しながら酒づくりを学びました。
世代を超えて受け継がれる、
酒づくりへの情熱とこだわり
日々覚悟と情熱をもって酒づくりに励む〈井上酒造〉では、清酒、焼酎、リキュールを扱っており、どの商品にも歴史とストーリーがあります。そんな〈井上酒造〉の柱ともいうべき3本の酒と、2017年に誕生した旬のフルーツ果汁たっぷりのリキュールについて、井上さんがおすすめのポイントを教えてくれました。
●初代 百助(ももすけ)
「100%大麦を使用し、蔵の天然地下水で仕込んだ〈初代 百助〉は、まろやかな甘みと、麦の香りを感じる軽やかな風味が特徴。『嫌いな人はいないんじゃないかな』というほど飲み飽きない味わい。『百助』は初代当主の名前で、井上酒造を代表する麦焼酎です」
●角の井 純米吟醸
「井上酒造の屋号である〈角の井〉を冠した清酒。200年以上続くこの地で、代々の杜氏が受け継いできた伝統の技で醸した純米吟醸。淡麗でうつくしくすっきりとした後味に仕上げました」
●百合仕込み 特別純米 雄町
「自家栽培米の〈雄町〉を使用して、丹精込めて仕込んだ純米酒。“百合”は私の名前で、名前からやさしくて華やかな酒を想像される方が多いのですが、むしろ逆。豊潤で、どっしりと力強い、余韻の残る味わいです」
●旬のフルーツリキュール(桃)
「きっかけは、2017年の九州北部豪雨を受けて、水害復興フェアで販売されていた〈みなみの里〉さんが販売されていた桃のジュース。ひと目惚れして大人買いし、そのおいしさが忘れられずに生産者さんを訪ねて、『リキュールをつくりたい』と直談判しました。その後コロナ禍で、世間が暗くなったりするなか、『冷蔵庫をあけてワクワクするようなお酒にしよう』ということで、かわいらしいお酒になりました」
このように愛情とこだわりがたっぷり詰まった酒がつくられているのが、清酒蔵。1964年、東京オリンピック開催の年に建てられたことから〈五輪館(ごりんかん)〉と名づけられています。
清酒蔵〈五輪館〉に入ると、漂う濃厚な香り。ここで1日も休むことなく、おいしい酒がつくられています。麹づくりの時期には「麹たちの“声”を聞くため、麹室に寝泊まりする」といいます。これほど手間暇がかかり、相当な苦労があっても元気で笑顔を絶やさない井上さん。そのパワーの源について聞いてみると、意外な答えが返ってきました。
「酒をつくると言いますが、私たちがつくっているわけではなく酵母や麹が酒をつくるんです。私たちはただそれを手伝っているだけ。その度合いを確認しながら成長を助けたり、休ませてあげたり、我が子を支えるような気持ちです」
代々受け継がれてきた技術や材料、どれをとっても、すべて手を抜かずに、最高の清酒をつくることに費やされているのです。